楽園の犬
この歳になると、死ぬことなんてちっとも怖くなくなるものだ。
近所でも評判の美人の母親と、これまた近所で有名な硬派でハンサムの父親の間に生を受け、それからこのオーブで多くのものを見てきた。
長年連れ添った妻とは先の大戦の折死に別れ、子供たちは今はどこにいるのかも分からない。
生きているのかいないのか・・。ともあれ私に残された時間もそう長くはない、先を急ぐことも無駄な悲しみに暮れることもない。
路地を霞む目を凝らし目的もなく歩く私は、今日の寝床と、水分さえ確保できればそれでよかった。
ところが確保されたのは寝床と水分ではなく、私自身だった。
突然私のあばらと同じように筋張った痩せた小さな手が私の顔を乱暴な手つきで掴んだ。
人間か・・・それも少年だろう。若々しくて乳臭い匂いが、弱ってしまっている私の鼻先に漂う。
「・・・あんたも一人?」
少年らしいまだ幼い声が、私に尋ねた。
そうさなあ、この老いぼれも生まれて二十年くらい経ったが、もはや一人であろうと二人であろうと、あとほんの少しのことだ。
少年の声は寂しさと息苦しいもどかしさに満ちていて、憐れなほど悲鳴を上げているように聞こえる。
痩せた細い手が私をぐいぐいと抱きしめるのを抵抗することもなく受け入れる。
やれやれ、しょうがない子だ。
生まれたばかりの可愛いが我が侭でやんちゃな我が子を思い出す。
妻と、そして昔私を飼ってくれた優しいご主人殿のいた幸せな日々がまるで走馬灯のように私の老いぼれた頭を駆け巡り、もしかするとこのまま今夜ゆっくりとした長い眠りにつけるかとそうぼんやりと考えている私。
「・・・一緒に行こう。傍にいてあげる」
誰も頼んではおらんのだがな、少年の心細そうな声に、どうにも切り捨てることが出来ず私は逃げるのを完全に諦めた。
敵意がないのならそれでよしとしよう。
御願いだからもう硬いものも味の濃いものも遠慮願いたいものだ。
目の前に出された冷えた硬いパンを噛み締めながら、弱まり抜け落ちた歯の間から屑を零す私を、少年はじっと見ているようだ。
この眼では少年の表情は見えないが、きっと興味深く見ていることだろう。
気管に詰まり、むせ返った私は皿の上にパンを吐き戻してしまった。
恩知らずと少年が怒鳴るのではないかと耳を垂れる私に少年は嬉しそうに言う。
「俺と同じだな、俺も食べれないんだ」
そうか、だからお前さんはそんなに痩せた手をしていたのか。
しかし少年よ、お前さんはまだ若く幼い。生きる為に食べて行かなければいかんだろう?
老い先短い私でさえ、生きる気力なくしても腹は減るのだ。これから私のような犬よりも何十年も生きる「人間」のお前さんはもっともっと沢山のものを口にしなければならないのだぞ。
少年は私の頭をなでて少しずつ色んな話をしてくれた。
少年の名前はシン。彼も大戦の折家族を失ったようだ。若さ故に死を理解できず、その若さ故に悲しみを上手く昇華できずにいるのだろう、話をしながら泣いたり喚いたり、やれやれそろそろ休憩させてくれないか。
やがて疲れ切った私がなんとか逃れたいと思っていたところ、この家の主人で、シンの恩人という男が帰ってきた。
「・・シン。そちらは?」
敬意を払ってくれるなんて、話のわかる男だ。
「道で突っ立ってたから連れて来た」
よくも抜け抜けと、言えたものだ、強制的に拉致してきたのはお前だろう。
トダカさんとやら、何とか言ってくれんか。
「道にな・・・。老犬だから足も弱っているんだろうな、おいで」
流石はこの野生児を飼いならす男だ、優しい声で私を呼び、大人しく近寄る私を撫でた。
その手は本当に優しく、恐らくいい階級のものに違いない。
トダカさん、この子が寂しがっているようだから今夜は泊めてもらってもよいかね?
ところが、私は新たな名前を頂戴してしまった。
参ったな昔の名前ももう思いだせんというのに、こんな歳になって新しく名前を貰うとは。
シンは昨日出会ったときよりずっと明るい声で私の名前を呼び、乱暴だが、愛情込めて撫で回す。
毛が抜けて薄くなっているんだ、あまり手荒な撫で方は勘弁して欲しいものだ。
朝早くから少年に弄ばれる私を案じてか、トダカさんは扱い方が悪いとシンを諭す。
そうだ、家族とするからには多少なりとも相手を思いやって接しなければならないだろう、シンよ。
あまりに少年が寂しそうなので、暫く「家族ごっこ」に付き合ってやることにした。
白内障と云う病のお陰ですっかり見えなくなってしまっているらしい私の目に、獣医師が薬を差し込む。
抵抗する気はないが、無駄なことをするものだ。
一時的に見えるようにしたところでどうせまた直見えなくなる。
だが、どうやらシンが私の目が見えないのがかわいそうだと言い治せるものなら治して欲しいと進言してきたのだ。
こうして野良の老いぼれのために血縁関係もない子供の頼みを聞き、トダカさんはポケットマネーで施術代に大枚をはたいた。
愛情も此処まで来るといっそ羨ましくさえあるものだ。
彼らの間には血縁や恋愛の関係にはない、独特の愛情があるのだろう。
なんの縁あってか、こうして一緒に暮らすこととなった私は、そんな彼らの純粋な愛情の形を肌に感じていた。
靄がかかってはっきりと見えなかった視界が、ほんの少しだがはっきりと世界を映し出す。
「ア、斉藤さんがこっち見た」
嬉しそうに顔を綻ばせ、笑ったのは酷く幼い少年だった。
年齢こそもう十二、三歳だろうが、その顔は子供じみていて、私を撫でる手はやはりほっそりと痩せていて頼りない。
そうか、彼がシン。
そして隣にいる優しい笑顔の男、これがトダカさんだ。
お前さんたちに出会えたことは私の最後の幸福だ。
もう死ぬのを待つだけだった私に喜びと愛情を与えてくれたのだ。
シンの目は大きく開かれ、色こそ分からないが、鈍い光を放っている。
この眼はどんな色で、そしてどんな光を放っているのだろうか。急にその小さな手や純粋に真っ直ぐ私を見つめる目を見ていると私は不安になった。半端に「家族ごっこ」に付き合い、去っていくことなんて、できない。
家族として友人として、私が彼に与えてやれるもの全てを与えたい。
そう思うほどに私はシンが愛しいと思えた。
次第に食事を積極的に取れるようになっていくシンと、相反して私は体が食事を受け付けなくなる。
あと少しあと少しだけでも、彼の傍にいてやりたいのだが。
死ぬことなどもう怖くはない。しかしまだ不安定で壊れ物のような少年が心配で眠ることがきでない。
まずいときに出会ってしまったものだ、数年早く出会っていればこんな思いで彼の頬を舐めることもなかった。
「斉藤さん。ずっとここにいてよ」
そんなことは出来ないのだよ・・シン。
「一人ぼっち同士だもんな、俺たち」
そんなことないよ、お前さんには彼がいるじゃないか。
ずっと傍にいてやれるものならそうしたかった。しかしもう迎えは直そこに来ている。
だからせめてもこの暖かな家の中を汚さないようにと、私は家を出た。
どこへ行きどこで眠れば言いのかわからない。しかし少しでもあの家から遠く離れひっそりと眠りにつきたかった。
生まれてから二十年,棒のように硬くなった足がもう歩くことを拒否している。
やれやれ、足にまで来たか、仕方ない此処で諦めよう。
私は空き地に生えた草の陰に腰を下ろし、空を見上げた。
冷たい秋風が生え変わる気力もなくした私の薄毛をさあっと撫でていく。
さて・・そろそろ眠ろうかな。
シンに死を受け入れて欲しい、生きる意味を知る為に、私のような犬の小さな命でも彼が悲しむと分かっていても。
彼のことは心配だったが、きっとあの子なら乗り越えてくれるだろう。
だが本当はそれだけではない。
死ぬことなどもう怖くはないし、目を瞑ってしまえば、愛しい妻や、不幸にも先に行ってしまったご主人たちに出会える。
そう思っていたのに、私は彼に出会い生にしがみ付いた。
誰も私を知らないこの世界で、誰かに私という犬がいたことを覚えていて欲しかった。
誰かに、私という生命のあったという事実を証明して欲しかった。
シンのことを我が侭などといえたものではないな。
酷く悲しさが私の動かない体を包む。感覚がなくなっていく体に降りかかる深い眠気。
悲しくも怖くもなかったはずなのに。私は涙が零れた。
ありがとう、シン。お前さんがこの世界で強く生き、そして強くあることを、ほんの少し先の世界で祈っているよ。
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