それはある短い夏休みのできごと 前編

 

 

 

 

 

ろくな休暇もとることなく過ごした半年間で、彼の有給休暇は軽く入院できる期間くらいに溜まっていた。

もちろん入院するほどの身体的な問題があるわけでもなく、あるとすれば日々の仕事と、抱え込んでしまった大きな子供と老犬の世話に明け暮れた疲労感くらいのものだ。

 

「どこか行くの?珍しいね、一週間も休むなんて」

 

縁日のビー玉のような透明で鮮やかな目が9時間以上眠りこけて目覚めた後の濃いコーヒーに舌鼓を打つトダカの様子に違和感を覚えたのか、そんな質問をぶつけていた。

 

「・・たまには休むさ。斉藤さんと散歩でも行ってきたらどうだ」

「駄目だよ、外暑いから斉藤さんすぐバテるんだ。今風呂場で水遊びしてる」

 

外は午前もまだ九時前だというのに燦々と照りつける太陽で、いかにも茹だるような暑さという雰囲気だった。

年老いた犬には恐らくかなりこたえる暑さだろう。

風呂場から聞こえる不規則な水音は犬が水遊びをしている物音、そして夏という言葉とはまるで不釣合いな不健康な肌色の痩せたシンは、どうもても真夏の太陽の下で駆け回るという言葉にはあまりに似つかわしくない。

 

半場無理やり取らされた長めの休暇を暑さを避けて家で寝て過ごすのもいいと思っていたが、季節感のないシンの顔色を見ていると、それも何だか違うような気がしてきた。

 

「シン、斉藤さんの体を拭いてあげなさい。出かけよう」

「出かけるの?どこに行くんだよ」

「・・ちょっとした旅行だよ」

 

 

 

 思い立ったら即行動に出るような若さが自分に残っていたことに、もう驚くこともない。

シンを引き取った日、シンと戦った日々で、随分と精神的な体力も付いた、と思い込んでいるトダカは、自分の思いつきに満足していた。

 

 目指しているのは、オーブ国内でも避暑地として有名な山間のひっそりとした別荘地。

レンタルカーに乗せられたシンと老犬斉藤さんは最近見ることもなかった山の鮮やかな緑や田舎風景に見とれるかのように窓の外ばかり見ていた。

 

「もうすぐ駐車場だ、ここから宿まで歩こう。気持ちいいぞ」

「うん。斉藤さん窓閉めるから顔入れて」

 

鼻先半分窓から出して風を浴びていた犬は、シンの呼びかけに素直に顔を引っ込めて大人しくバックシートに移動して座った。

血のつながりも、なんの由縁もない三人が家族になって初めての遠出は、ある夏の日の突発的な一瞬から始まった。

 

 

 「・・・涼しいー。」

 

伸びをして石段を駆け上るシンを追うように、トダカと犬はゆっくりとひんやりとしたいしを踏みしめて上る。

渓谷を流れる河と、叩きつけられるように深い青へと落ちる滝を見つめながらシンはまるで無邪気な子供のように一人で吊り橋を駆けていく。

 

つり橋を渡りきると、その先は狭い川幅と、更に澄み切った水、そして下流へ転がる前の生まれたままの大岩の群れ。

その岩の一つの上に、見慣れぬ制服姿の青年が立っていた。

 

「こんにちは・・・」

「あ・・・ども・・」

 

トダカ以外の人間と口を利いたのはどれくらいぶりだっただろうか。

挨拶というには聊か言葉足らずな挨拶だが、軽く会釈をして、シンは青年を見上げた。

岩の上でゆっくりと微笑んだ青年は穏やかな表情でシンを見ていた。

 

「ア・・俺・・旅行でここにきたんだけど・・この辺のひと?」

「・・ここは僕の大事な場所だよ」

「へえ・・・」

 

年頃にして二十歳前の青年だが、その制服は学生というよりはどこかの兵士のようだったが、その制服に見覚えなどなかった。

軍学校の生徒だろうかと、シンが考えていると、遠くから犬の声と、それとともに来る男の自分を呼ぶ声がした。

 

「シンー。待ちなさい迷ったらどうするんだ」

「あ・・トダカさん。斉藤さん。」

 

追いついた犬の頭を撫でてシンはまた岩のほうを見上げたが、そこに人はいない。

 

「あれ?」

「どうした?」

「あ・・いやさっきそこに人がいて、俺ちょっと喋った・・・。なんか軍人っぽかった」

「そうか・・この辺に士官学校なんてあったかな・・・。私も昔一度きたくらいだからあまり詳しく知らないんだ」

「ふうん・・・まいいか、この辺の人ならまたどっかで会うかもしれないし」

 

シンは人のいなくなった岩を見上げながら歩みを進め始めた。

 

 

 

 「そっちじゃない、こっちの宿だ」

 

トダカは、足先を真新しく立派なつくりの豪華な旅館へと向けているシンを引き止めて、反対方向にある少し林の奥にあるこじんまりした旅館へと向けさせた。

 

 明らかにがっかりしたような表情をする彼を無視して、トダカは荷物を持ち直して歩く。

 

「仕方がないだろう。斉藤さんも一緒に泊まるとなるとこっちしか無理だったんだ」

「・・・本当はお金ないだけとか・・・」

「嫌なら一人で野宿だな」

「え!それはやだ!」

 

確かに少し傾きかけているという言葉がしっくり来るほどに寂れた雰囲気の外観の宿屋ではあったが、この穏やかな景色に似合いの穏やかで上品そうな老婆が出迎えてくれたことで、トダカの気持ちは趣あるこの宿屋へと完全に向いていた。

 

「まあまあいらっしゃいませ、お待ちしておりました・・・ええっと・・三名様でよろしかったかしらねえ・・・」

「犬を入れてもよろしいのでしょうか?」

「ええもちろんですとも、こんな畳みかけの宿ですし、それにうちではお客様はどんなかたでも歓迎です。お疲れでしょう早速お部屋へご案内致します。」

「ありがとうございます。さあいこう」

「うん」

 

老婆はトダカと言葉を交わして、シンと彼女と同じ年頃かもしれぬ犬に微笑みかけた。

 

「可愛らしい坊やとハンサムな旦那さんもお疲れでしょう。チヅルちゃんの荷物を運んで頂戴」

「はいー」

 

飛び出してきたやる気になさそうな仲居が、トダカとシンを交互に見て眉を顰める。

親子というにはあまりに似ていない上に、年も親子というにはあまり離れていなさそうだ。

 

部屋に案内される間、ぎしぎしときしむ桐の木の床板を踏みしめて興味津々周囲を見回すシンと、おとなしく静かについていく斉藤さんに聞こえないくらい小さな声で、若い仲居は言い出しにくそうにトダカに尋ねた。

 

「・・・・あのどういうご関係・・・ですか?」

「・・・・姉の息子で、今は家族です・・」

 

独身男が女の影も持たず若い少年と旅行などしていたら怪しまれても仕方はない、職場でも冗談か本気か、そんな噂をされ慣れてしまったトダカは、ため息混じりに、仲居の好奇心を打ち砕いてやるお決まりのうそをついた。

 

 

 

 豪華とはいえないが、もてなしの思いの込められた優しさに満ちた料理に一行は満足していた。

 

「シン、温泉があるそうだ、斉藤さんも連れていっておいで」

「犬いれてもいいの?」

「女将さんが了承してくださったんだ。景色もいいし、気持ちいいぞ」

「じゃあトダカさんもいこうよ」

 

「・・私はあと一杯飲んでからいくよ」

 

機嫌よく片手にした冷酒の入ったお猪口を上げてみせると、シンは少しだけ不満そうにしてみせたが、彼の一人でのんびり飲みたい気分を害さない為に、それ以上反論はせず、斉藤さんとともに離れの温泉へと出かけていった。

入れ違いに廊下を歩いてきた老婆は、走っていくシンに会釈をして、静かに廊下を歩いてきた。

 

「お食事はお済のようですね・・」

「ええ。とても美味しかったです」

「・・それにしても・・可愛らしい坊ちゃんだこと、私の妹にそっくりです」

「妹さんに?あれに似ているなんて、そんなとんでもないです、暴れまわる猿みたいな子供ですよ、妹さんに失礼だ」

 

苦笑して彼女の暖かな眼差しに言葉を返すと、彼女は少し声を上げ小さく笑うと首を振る

 

「いいえ、優しくていい子ですよ、あの子は。・・本当に数十年前の妹にそっくりです・・・」

「へえ・・・。その妹さんは・・今どこに?」

 

「もう・・ここにはおりません・・」

 

聞くべきではないことを聞いてしまった・・。瞬時にそんな言葉が頭をよぎり、ごまかすようにトダカは酒を煽った。

しかし彼女が穏やかに微笑んだまま、また会釈をしてお膳を片付け始めただけだったのだ。

そんな様子にかける言葉はない。

 

 

 

 犬を温泉に入れていいとは、さぞかし客足が途絶えて久しいに違いない、と不躾なことを考えながら、広々として無人の温泉に浸かったシンは考えていた。

元来風呂好きな斉藤さんは、年寄りらしくお湯の流れる浅瀬に足だけつけて心地よさげだ。

 

「・・・あれ?」

 

シンの視線の先にあるのは、あの軍服姿の青年だった。どこか遠くを見つめるように木の陰から何かを真剣に見ている。

その横顔は夜のせいか湯煙のせいか、少しぼんやりとして見えた。

 

「お兄さんー。なにしてんの?」

 

青年はゆっくりと視線を巡らせる。

シンは軽く手を振り岩場の端まで豪快にお湯を蹴って進み青年に呼びかける。

 

「また会ったね、なにしてんの?何か見えるの?」

 

「・・・」

 

少しだけ大きく目を開き、そして少しだけ薄い唇から言葉を漏らしたが、その声はお湯の流れる音にかき消され、シンの耳に届くことはない。

 

「約束だよ」

 

「え?なに?」

 

今度はまるですぐそばで囁かれたような錯覚さえ起きるくらいに響いた。

青年の声がシンの耳に軽い反響を残しながら入ってくる。

 

そして彼が少し笑った。

 

 

 

 


 「・・・!う・・うまい」

 

「ほほほ。いいお酒でしょう。名産なんですよ」

 

昔一度来た頃などは、酒なんて嗜む大人ではなかったトダカは、しみじみ大人である喜びを噛み締めながら、よく冷えた透明な冷酒をくいっと喉に流し込んだ。

自然な甘みと香りが喉元から鼻を抜け、やがて脳にここちよい刺激を与えてくれる。

そんな晩酌を楽しみながら、女将と二人、広い座敷でゆったりとくつろいでいた彼は、座敷にあるたくさんの写真に目をつけた。

 

壁の上部に並べられた、モノクロの写真。それは先代の当主や、そのまた先代の歴史と伝統と旅館の誇りそのものだ。

並べられた写真の数や床の軋み具合からしてもこの宿の歴史は相当なものだろうと推測されたが、トダカの目を引いたのは、彼さえ写真資料でしか記憶にない、古いオーブの軍服を身にまとった、豊かな髭の男の写真だった。

古い写真ではあったがその男のりりしい眉根を見ていると、彼がいかに立派な軍人であったかを物語るものだった。

 

「それは私の祖父です。ここを体の弱い叔父に譲り渡し、戦争に行ってしまった父・・・」

「なるほど・・・なかなか美丈夫で、精悍な軍人ですね」

「ありがとうございます。そういって頂けて父も喜んでいることでしょう」

 

「しかしあの軍服・・・随分古い時代からオーブの軍に服役されていた家系のようですね」

「ええ・・そうですね。私の兄もそうでしたから」

 

彼女が皺だらけの手を擦りながら眺めたのは、その歴代の先祖の写真とは別に下におかれた小さな写真立ての写真だった。

あまりにボロボロで、彼女の兄の姿ははっきりと把握できない。

しかし・・その小さな写真の中でオーブの軍服に身を包んだ男の傍で口を一文字に結んでまるでこちらをにらみつけるように見ている少女の姿。

それは・・・

 

 

「似ているでしょう・・?驚きましたよ、今日あなた方が来られたとき」

 

彼女は嬉しそうで、しかしどこか複雑さに困惑した表情を浮かべて写真をそっと撫でた・

 

「あなたのお連れさん・・・あのコにそっくりなんですよ」

 

少女の負けんとする瞳。それはセピア色であるのに、まるでそれが赤色だと主張しているかのように輝いてみえた。

まるで生き写しだと驚くほどまでに似ているわけではない。しかし、それは確かにどこかシンにそっくりだったのだ。







                                
                               後編へつづく。

                                寒いので夏のお話が書きたかっただけ。旅行にいく二人・・・          

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